F1を始め、モータースポーツにはさまざまなカテゴリーがあります。その中でよく取り上げられるのが、お金の話。
そう、モータースポーツはお金がかかるのです。
さて、そんなときに以下のツイートが少し伸びていました。
本当コレ。
共感できる人は分かってる人だと思いたい。 pic.twitter.com/RJyJU0WsRy— 手遅れ工作員 (@Supreme_CHINJI) October 5, 2021
アマチュアの世界において大事なのは、”ドライバーの実力よりも車にかけたお金だ”というもの。
確かに私自身も、この記事のタイトルにもつけているように”モータースポーツは腕より道具だ”という考えを持っています。
せっかくなので、このツイートを踏まえながら私の持論を展開していきます。アマチュアの方もプロの方も、ぜひご覧ください。
大前提:モータースポーツは道具のスポーツ
野球やサッカーなど、道具を使うスポーツはいっぱいあります。モータースポーツも同じく道具を使用するスポーツです。
しかし、道具の占めるウェイトは、道具を使う他のスポーツに比べて極めて高くなります。
道具を使うということは、道具そのものの個体差の影響が顕れるということ。野球のグローブやバットも、工業製品の一つ。しかし、バットの個体差を訴える野球選手は居ないと思います。なぜなら、直接的な性能に関係する個体差は少ないから。例えば一人だけ反発係数1のバットを使っていたとしたら、と思うかもしれませんが、そんなことはありません。ちなみにボールの反発係数はある程度のばらつき以内に収めてるそうですよ。ましてや、一つのボールをみんなが使うので、かなりイコールコンディションですけどね。
一方で、モータースポーツはどうでしょうか。全く同じ図面で作ったエンジンであっても、工業的にはバラつきが存在します。もちろん、エンジニアはそのバラつきを考慮に入れて設計するわけですから、公称される性能はある程度担保されています。ただ、その中で性能の良い/悪いの差があることは事実です。同じエンジンだけど出力が10馬力違うなんてこともあるでしょう。この差は、ドライバーの手で埋められる差ではありません。ドライバーがいくら頑張ったところで、車の馬力は上がらないのです。
見出しの通り、モータースポーツは道具のスポーツです。どこの車が速いのかを競うのが本分。車目線で見るなら、ドライバーこそ道具かもしれません。
人間目線で見たとしても、道具の使い方を競うスポーツであることに変わりありません。そして、その道具には性能差が必ずあります。
車という工業製品を利用して勝負しているのだから、性能差が直接勝敗に結び付くのは当然。私が腕より道具だと主張するのはこのためです。
F1なんてまさしく道具の祭典。ドライバーの実力差以上にマシンの性能差が影響するからこそ、勝負にならない場面が多々あります。特にストレートスピードなんてドライバーにはどうすることもできないポイントですし。
速さは絶対的と相対的に分けられる
一口に”速い”と言っても、その意味は何通りもあります。
例えば、筑波サーキットで1分切りをしたとしましょう。これは速いですよね。もちろん、筑波55秒台って言われたらそれも速い。逆に、1分10秒ぐらいのタイムだったらどうでしょうか。それを速いと言う人はほとんど居ないことでしょう。これが絶対的な速さです。
ただ、ノンターボの軽自動車が筑波で1分10秒で走るって聞くと速いような気がします。これが相対的に速いということ。
モータースポーツはタイムという概念が支配的。みんなが速いとか遅いとかいうのはタイムのこと。だからこそ、多くの人は絶対的な速さにしか目がいかない。
絶対的な速さは、ドライバーの実力以上に車の性能に依存します。ドノーマルのプリウスが筑波で一分切りなんて無理なように、どれだけ背伸びをしても、車は自身の持つ性能以上のことは出来ません。
今回取り上げたツイートも、本質は絶対的速さしか評価しないことに対するアンチテーゼだと思います。本来は車の性能を使い切ってタイムを出すことが目的なのに、いつからか何で走るかではなく、何秒で走ったのかにしか目がいかなくなっているのです。
私自身、ドライバーしての技量にはある程度自身があります。でも、速い車には乗ってきていません。車なりに速いタイムは出せますが、そんなことをしていても誰も見向きもしません。
だからこそ、性能は使い切っていなくても速いタイムが出る車が正義と言われるのです。
サーキットのタイムアタックにはレギュレーションがない
タイムアタックをするだけなら、レギュレーションなんてものは存在しません。各サーキットにコースレコードはありますが、そこにはレギュレーションなんてありません。(鈴鹿サーキットのように各カテゴリー別にレコードがある場合もあります)
特にミニサーキットでアマチュアの人たちがタイムアタックをする場合、普通車のガワをしていれば中身はどんなものであってもいいわけです。筑波スーパーラップも同じ感じですよね。あれだけ作りこまれると逆に凄いものがあります。
レギュレーションがない場所で走っている以上は、だれもが絶対的速さに目をつけがち。数字のインパクトはそれだけ凄い。
そんな状況だから、性能を使い切っているけど絶対的には速くない車で走っている人は面白くないのです。逆に、絶対的に速い車に乗っている人は、周りの注目も集まってより楽しいでしょう。
なぜテクニックを高めるのか
性能がいい車でいいタイム出すのが目的なら、なぜドラテクを向上させようとするのか。
私は明確に答えを持っています。同じ条件で負けたくないから。
先ほどより、いい車がそこそこいいタイムを出せばそれで評価されると申していますが、同一条件での勝負となれば話は少し変わってきます。
基本的にモータースポーツで重要視されるのはタイムですし、プロ/アマ問わずに自分の車でしか走らないものです。ただ、同じ車で複数人が乗って勝負する、そんな状況になれば純粋に腕の差が出てきます。
この時に負けたくないから、テクニックが欲しいのです。
車の性能は金で買えるが、技術は金だけでは手に入らない。車に乗せられていると思われるのが嫌なので、私はテクニックを求めます。
それに、いい道具があればある程度のタイムは出ますが、いい使い手が居なくては道具も腐ってしまいます。道具を生かすも殺すも、結局は使い手なのです。ただ、同じ技量の使い手ならいい道具を用意したほうが有利なのは当然のこと。だから私は腕より道具だと主張するのです。
趣味と割り切れるかどうかがポイント
ここ2年ほど、私はモータースポーツから離れた生活をしています。理由は単純で、趣味として割り切れなかったから。
プロドライバーではないので、サーキットを速く走ったところで一円にもなりません。もちろん誰も褒めてくれない。自己満足の極みです。
趣味として考えたら当然のことですね。ただ、冒頭でも言ったようにモータースポーツはお金が掛かります。どれだけ実力を身に着けても、だれからも評価されないのに走り続ける気力が私にはありませんでした。
ただ一人で走って、タイムを見て満足出来れば、そんなことは考えなかったと思います。ただ、朝早く起きて走りに行って、疲れた体で帰ってきて、壊れたら車直して、なんていうルーティンに疲れてしまいました。自分はいったい何をしているのか、と頭によぎった瞬間に、モータースポーツの楽しいところを見失ったのです。プロドライバーになれるわけじゃないのに、ここまで投資する理由はなんなのか、分からなくなってしまいました。
とはいえ車の運転は好きなので、ちょくちょく車を貸してもらって乗るのは十分に面白いです。ドリフトも早く復活してくれと言われることも多いですし。最近ではモータースポーツを再びやりたい気持ちが少しずつ出てきました。今は金銭的に不可能ですが。
元々ドリフトが好きだったのも、とりあえず滑らせて走らせることに対する自己満足度合いが高かったからだと思います。それも数年前に作り込まれた車と一緒に走って吹っ飛んでしまいました。
最後に
趣味に対する投資は、自分の人生を豊かにするために行うべきものです。走ることが楽しくなくなったのに、それでも意固地になって続けるのは幸せとは言えない気がします。
これを読んで、モータースポーツがちょっと楽しくなくなったなと思ってた人は、一度離れてみるのもいい気がします。